前回のあらすじ
先週、何もないところで背中をギックリしてしまい、体は若くないという現実を突きつけられた桜井。
それ以来、夜道を歩くこと自体が不安の対象になり、近所への買い物ですら緊張するようになってしまう。
このままでは来年も白いスーツが入らないどころか、来年体が動くかどうかも怪しいと考えた桜井は、ある計画を実行に移す・・・。
桜井、夜道に立つ
先週ついに思い立ち、ジョギングを始めました。
走ろう!とは前々から思っていたので、実はシューズとジャージは購入済み。とりあえず道具をきっちりそろえるところが何とも。
木曜日、新館で机の色ぬり作業(下図)を終えて帰宅。
あらかじめ買っておいた上記の服装に、コンビニで買った防寒対策の手袋とニット帽を装備し、家を出ます。
ゴール地点は特に設定せず、近所に野川があるので、野川沿いのジョギングができる道路を行けるところまで行こうと思い、とりあえず走り出しました。
この瞬間、目的を持って走ることに対してとてもワクワクしていたのを覚えています。
でも現実は非情。
なんと、野川に到着するまでの1km弱で、もうヘトヘト。
歩を踏むペースはかろうじて走っている体を為してはいますが、ほとんど競歩みたいな両足地べたの歩行で進んでいました。
運動不足と口で言うのは簡単ですが、実際経験してみると、運動しない大人って、こういう感じなのか・・・!と思わざるを得ません。
(実は5年ほど前にも、同じようにジョギングに目覚めて走っていた時期があったのですが、その頃はこんなに序盤で疲労したことはありませんでした。)
恐ろしいことに、体内のあらゆる器官が、ジョギングを継続させまいとして働きかけてくるのです。
呼吸は乱れ、心臓は爆音を発し、足は重さを増し、手足は冷え切り、最後には頭痛まで。
頭では「走らなきゃ」と思っていても、それに付き従うべき手足たちが命令を聞こうとしません。
それでも、上がろうとしない足を前に出してペースを乱さず、なお奮起して走る姿勢を保ち続けるのは、ただただ「健康」という目的のためでした。
実際、頭が「痛くても動け」と命じれば、どんなに痛んでいても足は前に動くのです。
その不思議な感覚にちょっとした面白さを感じながら、ただひたすら走り続けました。
何とかおよそ5kmのきょりを走り切り、そのまま自宅のお風呂(出発前に入れておいた)に直行して、なんとか歩けるくらいにまで回復。
その日はそのままベッドに倒れ込んだのでした。
感想
次の日、友人とともに京王線で永山駅前の温泉へと向かい、岩盤浴で新陳代謝を促します。
そこで考えていたのは、あの時の不思議な感覚。
頭が「動け」と思っている限り、足が「動く」という感覚。
これは、裏を返すと
足が「止まる」のは、結局のところ、頭が「もういい、休め」と思ったときだということ。
体というのはとても正直で、自分たちの要望を「痛み」や「硬直」などといった形で率直に伝えてきます。その要望に全て答えられれば一番楽なのですが、時と場合によっては、その要望に応じたことによってその後かえって不幸になることだってあります。
ジョギングは体の健康のためを思ってやったこと。
けれども体は反抗してくる。
そんなとき、頭はどのように対応すればよいか。
知識・経験・目的意識をもって的確に判断すればよいことになります。
たとえば、運動していると疲労のたまった足が「やめなよ!」と言ってきますが、それは聞く必要のない要望です。
でも、ひざ関節を逆方向に曲げるチャレンジをしたときに足が「やめなよ!」と言ってくるのは、それは足が正しいのですぐやめましょう。
それらの最終的な判断の権限を持っているのが頭です。
そして、頭の下した判断を持続するために必要なのが、いわゆる「根性」とか「我慢」、もしくは「希望」や「理想」なのでしょう。
例:理想の自分の体形のために、お菓子を我慢する。
そして最後は、自分の頭が正しい判断をするかどうかにかかっています。
走ろうと思い立つのが自分なら、立ち止まろうとするのも自分。
コンビニで黒烏龍茶を買うのも自分なら、ついアイスに手を伸ばしてしまうのも自分。
受験しようと思うのも自分なら、勉強を後回しにして遊ぶのも自分です。
これから受験勉強に臨む皆さんには、体の要望を退ける我慢の連続の日々が待ち受けています。
必ず「眠い」「だるい」「やる気ない」という体からの訴えがあると思いますが、自分の頭で、自分の将来のために、正しい判断が取れるよう、頭をどんどん鍛えていきましょう!
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でも時には
休息も必要よねー。
写真は昨日の晩ごはん。
明日から頑張ります。