今週のお題「575」
最近、文化的に自然とともに生きることに喜びを感じております。皆様いかがお過ごしでしょうか。
華道茶道その他諸々、あらゆる文化的活動の中でも最近私、特に俳句にハマっており、1日のうち16時間くらいは新たな句を生み出すのに使っております。
わたくしの、日常会話は、575。空を見るたびに「うーむ、これは梅雨の空」と季節の移り変わりに涙し、石に漱ぎ流れに枕し、漱ぐってなんて読むんだろうと人類が生み出した文字に広大なヒストリーを感じております。
最近では七歩歩く間に(弊社友人達の)兄妹姉妹の不仲を豆殻に喩えた句を思いついてしまいました。おかげで近所の奥様方からは流離の大俳人( グレートハイカー)と呼ばれております。
さて、そんな冗談はさておき久しぶりの投稿は、はてなの今週のお題に沿って575「ここで一句お願いします」です。
帝耳隠路盤 纏冠衣如澄白絹 馬指鹿為成
タイトルの詩は清代の詩人 沃谷押のものであります。私が好きな詩がちょうど575だったので載っけた次第です。これは清の官吏である沃が、当時の皇帝に諫言したとされる詩の一部で、「陛下の耳は駄馬のように民の声は届かず、まとっている権威名声は丸裸同然である。このような状態で玉座に就き続けるのは大馬鹿ものである」という意味です。おそらく王様の耳はロバの耳、と裸の王様という西欧のおとぎ話、最後は秦時代の末期、宦官にたぶらかされた皇帝の話を出したのかと思われます。その後、沃は火炙りの刑になってしまうのですが、最後に一言、次の句を続けて亡くなったと言われます。
「聴万如一触」
日本語で「百聞は一見に如かず」といった意味合いでしょう。民の声を直接聞いてくださいという願いは最後まで聞き届けられず、清王朝は滅亡の一途をたどります。
はい、全部大嘘です。
残念ながら私は歴史も文学も全くのからっきしなので全部でっち上げです。真面目に読んでくださった方、誠に申し訳ないです。私以外の記事はきっとまともなことを書いているのでそちらを読んでください。
いや、575だの俳句だの聞くと、いつも納得いかなかったのが
「松島や あぁ松島や 松島や」
これが名作扱いされているってことです。
んなもん、私が「富士山や あぁ富士山や 富士山や」って詠んでも良いわけじゃあないですか。
松島が稀代の名作と謳われるのはそれが名句なのではなくて、マツオさんが詠んだからじゃあないかと。これだからジャパンは。結局は偉い人の発言でポッポと向きの変わる窮屈な社会だと。江戸時代?からそんな権威主義かよだっせぇなと。それっぽいこと書けばいいんだろ?じゃあ私も書いてやんよ、な気分なのです。
最近までは、無理くりコロンブスの卵的にやったもん勝ちだ、と自分を納得させておりましたが、最近はほんの少し考えが変わってまいりました。
「これって、松島を見てない私が間違っているんじゃあないか。」
マツオやべぇよ、あいつヤベェ俳句家(ハイカー)だわ!と共感するには、我々も俳句家(ハイカー)でなければなりません。つまり、同じものを見て感じなければ話が始まりません。脳内でキレイなものなんだろうなー、ではただの分かったつもり、自己満足にほかならないのです。
おそらく当時の俳句家(ハイカー)は松島の絶景を前にし、すんごい量の句を生み出しながらも、それを表現することができなかった。それをあぁ無理っすわこれ、ってぶん投げたマツオさんは結果として、自然を前にするという原点に立ち返った。そもそも自然を人間のちっちぇ脳で語るのはおこがましい。表現しきれぬものを表現してきたが、それはできねぇって敗北を受け入れたのがマツオのすごいところだったんじゃないかと思うのです。
我々含め、脳内の話は脳内でとどめておいて、ちゃんと目の前の現実を、触れて感じなきゃあかんなぁと思う次第であります。