先日、七五三のお参りに行ったご家族から、ありがたいことに千歳飴をもらってしまいました。
(当の主役が「おいしくない」と言って食べなかったそうです。)
千歳飴の主成分は「親が子を思う気持ち」とかだと思いますから、きっとカロリー0。※個人の感想です。
食べると1000歳まで長生きできるそうなので、健康面でデンジャラスな生活をしている方にもおすすめです。
そういえば、この塾の最寄り駅も千歳烏山駅(京王線)といいますが、こっちの千歳はどこから来たのでしょう?
・・・と思ったら調べれば簡単に出てくる。
インターネットを使えば、知りえないことなんてない。
そんな便利な世の中です。
世の中には、知らないことがたくさんあります。そして、そのうちのほとんどは、知らずに一生を過ごすことになります。
生活に必要な情報さえあれば、生活には困らないはずですからね。
不要な情報は不要なのです。
では、「必要な情報」と「不要な情報」はどこで分かれてしまうのか。
おそらくこれらはクッキリと分かれているものではなく、境界があいまいです。
例えば、「千歳烏山駅東口側の地下通路の階段は、北側が23段で南側が24段」という情報は、知っていても利益はありません。ほとんどの人にとっては不要な情報です。
(こういう情報を「トリビア」と言います。懐かしい(笑))
ですが、もしこの知識を得た人が「どうして南北で段数が違うのだろう?」と思った瞬間、不要であった情報が色づき始めます。
そこから生まれるのは、「駅の南北には階段1段分の標高差がある?」とか、「西口側の地下通路はどうだろう?」とか、「実は階段1段あたりの高さが違う?」といった次なる疑問。
さらに「傾斜があるとしたら車いすは移動しにくい?」「西側の階段の段数を調べたら、周辺の土地のかたむき具合が予測できる?」と連鎖的に思考が進みます。
そして「真のバリアフリーは駅舎の高架化で実現できる!」(一例)などの結論に至ったとすれば、振り返って「千歳烏山駅東口側の地下通路の階段は、北側が23段で南側が24段」は、その発想のスタート地点として「必要な情報」であったことになります。
つまり、「不要な情報」は「(現時点では)不要な情報」であり、将来的には輝かしい「必要な情報」へと進化する可能性があります。
あ、もっと簡単な例としては、「アリは10mの高さから落ちても死なない」というムダ知識。使い道は特にありませんが、もし子供に「アリさん捕まえたら落としちゃったけど死ななかったよ。なんで?」なんて聞かれた瞬間、親の責任として「必要な情報」になりますね。
必要か不要かの判断は、未来の自分が判断してくれます。
ということで、知ってて損する情報は(あまり)ない、というお話でした。
毎年、受験生には算数の公式を50個以上覚えてもらうことになりますが、そのうち1校の受験で必要になるのはせいぜい10~20個くらい。
もし入試におうぎ形の問題が出なければ、おうぎ形に関する公式は丸ごと不要になるのです。
では果たして、おうぎ形に関する勉強は不要だったのか?
賢明な生徒諸君なら、「そんなことは無い」とわかりますね。
(このブログを読んでいるかはわかりませんが)
「受験」のその日は「不要な知識」だったかもしれませんが、しっかりと持ち続けていれば、いつかその知識が色づく日が来るかもしれません。
今がんばって多くの知識・情報を得て、大事にしておいてください。
余談。
世の中には、うっかり塾講師になってしまったがために、すっかり忘れてたおうぎ形の公式を再勉強することになった人もいるのですよ。