「あなたは『アドラー式』で育てられたのね」
とはある日の妻の言葉である。
恥ずかしながら、その当時「アドラー式」
なる用語を不知であった私は、
現代社会において、多くの疑問のファーストアンサーとなりうる、
偉大なgoogle先生に尋ねてみることにした。
なるほど、確かに私の育てられ方は、鹿児島県鹿屋市という僻地で純粋培養された「アドラー式」と呼ばれるものなのだろう。
さて、自分はどうかというと、当然に遺伝的にも、環境的にも親の与える影響は大きく、やはり「アドラー式」に近いのではないかと思う。
「子育て」という広く、大きな、そして時間をかけて行うテーマに関しての哲学としては、私と妻の間にも相違はない。
「教育」に言い換えたとしてもこれまた同じこと。
問題は、「進学指導」という、まさに我々の生業をテーマという空欄にあてはめたときである。
管理が先か、自主性が先か
永遠の命題のように感じたこの問いに対して、私たちは一つの結論を出した。
時間に関しては、「管理が先」にしようと。
善は急げ、来年度からは全受講生に2つのタイマーを用意してもらうことにし、
早速、楽天市場にて購入。
このあたりのスピード感は、娘の愛してやまない滑り台なる遊具よりも、
あっという間である。
私は、生来の「自主性」論者で、自ら踏み出そうとしない一歩など大した価値もなく、
それを待つべきであるというスタンスであった。
このスタンスにはブレがないのだが、一つ新たな事実が、判断材料の中に加えられた。
それは、「時間を管理する方法」を知らないのである。
知らないことを知らないのである。
つまり、時間を管理するということが、選択肢にないのである。
もちろん、小学生であるから時間など気にせずとも、
自らの赴くままにというやり方も十分に魅力的だ。
なんと“小学生らしい”のだろう。
ただ、私が生きた場所、時代と、彼女たちの生きるそれは、あまりにも異なる。
懐古主義に浸るのは、聊か無責任というものだ。
大人たちが自らの経験という、唯一無二の根拠によって
その価値観という鉄槌を下すのは、暴論としか言いようがない。
選択肢として方法を提示することは、大人としての義務ともいえよう。
勉強法が先か、忍耐が先か、はたまたやる気スイッチか
古今東西「勉強のやり方」については、色々と議論がされてきて、
それに関する書籍を挙げれば枚挙にいとまがない。
個人的には、方法論を単体でする議論はあまり得意ではなく、
自らもスマートな方法によって学習を円滑に進めてきたわけではない。
というよりは、方法論を議論するほど勉強してきていないという方が実態に近かろう。
ところがである。勉強法以前の問題があるのである。
例えば、記憶→テスト→確認→再記憶という、
スタンダードな日本人が誰しも経験してきたであろうサイクル。
これに関して、
見事なまでに最初の「記憶」の作業は、省略、または簡略化され、
「テスト」こそすれど、「確認」は解答を写すという時間とインクの無駄へととってかわり、
「再確認」は、「めんどくさい」という勉学と最も親和性のないマジックワードの下に、その姿は跡形もなく消え去っていた。
社会一般で、意識せずともスタンダードとされる方法を提示することがよいのか、
堅忍不抜の精神のもと、修行僧のごとく取り組むうちに洗練されていくのものか、
それとも“やる気スイッチ”なる空集合に近い概念が現実のものとなり、
得点から演繹的に方法論にたどり着くのを待つのか…
我々は、時間と方法に関して、選択肢を提示することに決めた。
偏差値が先か、志願者増が先か
「卵が先か、鶏が先か」とはよく言ったものだと、改めて感じながら、
来るべき学校経営に目を向けると、
殊「再建」という命題を掲げた場合には、
「偏差値が先か、志願者増が先か」という壁にぶつかる。
教育内容の充実が本質などといったところで、
万人が前提としてシェアしていることの再言に意味などあるわけもない。
詰め込みVS思考 教育方針VS偏差値など実態のない二項対立を扇動してみても
それが他校との差別化とは程遠い。
結局は現状認識をしたうえで、どのポジションを取るかを、心して決することだ。
いいとこどりは現状維持でしかなく、
現状維持は後退を意味する。
下半期が先か、他の記事が先か
今週は下半期について書くと先週申し上げた。
ここは端的にいこう。
下半期について、思いつかなかったのである。
楽しみは取っておいたほうが良い。
いつの日か希望的妄想的2018(下半期)を書くことを念頭に、
今日も希望的妄想を繰り広げている。