ママ会の準備はパパかい!?
昨日は、我が家で「ボードゲームママ会」を実施。
「ママ会」なので、私自身は参加しないのだが、ゲームの選定など頭を悩ませる。
基本的には適当な性格なのだが、どこかに何かしらの変なスイッチがあるらしく、
選び始めると…明らかに採用するはずもない60分以上の大箱やらの説明書を読み始めるなど、大幅な途中脱線をしながらも、何とか無事に選び終わった、のは丑三つ時のころ(笑)
もちろん、やりきれないであろう量を選定したのだけれど(弊社をご存知の方はご想像できると思いますが、基本的に何をやっても余りが出るスタイルです。)、
どれも好評を博していたようで、選者としては何よりであった。
(ここで選んだゲームは、枯渇しつつあるブログのネタのために取っておきます(笑))
そういえば、最近、購入代行のお話もいただくようになり、
いっそのこと販売を始めた方が早いのでは、なんて思ったり、思わなかったり。
さて、何が言いたいか。
そう。水曜日の更新が遅れた言い訳をここまで書いたのである。
ボードゲームママは教育ママか
最近、「ボードゲーム」と「知育」というキーワードでいろいろなことが語られていた。個人的には、この記事がとてもまとまったいて、参考になると感じたので、リンクを貼っておく。
以前、どこかでも書いたのだが、
「頭よくなるから、ボードゲームさせたい」
はたぶんあまりうまくいかない(笑)
そもそも、「知育」なんてものは、何をやらせても基本的には成立する(塾屋の発言とは思えない。)
私個人的には、子供の好奇心をくすぐり、集中力をもって取り組むことができるものは、すべてが知育の教材だと考えている。
それが、TVゲームであろうと、漫画であろうと。
勿論、私自身が「ボードゲーム」に感じている特有の魅力はあり、それは所謂“知育”の側面から見ても存在するのだけれど、
殊に幼児期の教育においては、副次的なものに留まるように思う。
要するに、ボードゲームに限らず、知育教材を用いて、獲得された「論理的思考力」やら「社会性」やらというものは、「結果」に過ぎないということだ。
何よりも大切なのは、「好奇心」を出発点とすること。
そして、「好奇心」は子供の好奇心は当然大切であるが、「大人の好奇心」を出発点とした方が、「知育」としてはうまくいきやすいのではないかということである。
なぜなら、大人が「楽しい」と思えないものを提供する際には、「やらせる」という「使役」の視点が必ず介入し、それを子供はとても敏感に感じ取ると考えるからである。
また、「大人の楽しそうな姿を見せるコト」以上の、教科書はそう存在しないだろう。
親であれ、「教育」と言われるものを提供する側であれ、「本当に自分が楽しい」と思えるものを子供に伝えることが、基本的な出発点であろう。
もちろん、子供が自発的に興味を持ったもので、親が興味がないものはOKだ。可能性としては、高くはないかもしれないが、ある意味で望ましい形ともいえる。
大人の楽しいを準備する
獲得されたものは結果論に過ぎないと書いた。
しかし、教育を提供する側としては、「結果論」ではいけない側面もある。
これは、通常、ボードゲームを楽しむユーザーとは異なる点と言えるのかもしれない。実際、「ボードゲーム×知育」さらに、「中学受験」というカテゴライズの中で仕事をしている人は、それほど多くはないだろう。
授業の構成、ゲームの選定、イベントの企画、の際には、当然であるが、「結果から逆算」することになる。
例えば、説明書から読ませることで実戦的な読解力をつけることができるとか、コンポーネントに触れることなく、説明書だけからの情報から推測することによって“立体的な”読解力がつくとか。
他にも、実際のゲーム中の一場面を写真に収め、終了後、この時点の最適手を考えるとか、挙げ始めれば枚挙に暇がない。
この辺りは、純粋にゲームを楽しみたい方がから見れば、邪道と評されるところだろう。
まぁ、それはそうなのだろうけれど、「教育」なんてありがたい言葉は、本来そうなのだろう。
数学者にしてみれば、計算練習の算数は邪道だろうし、大経営者にしてみれば、無駄な授業は多く感じるのかもしれない。
とはいえ、大事なことは、「大人が意図をもって準備すること」だと考えている。
当たり前と言えば当たり前。
ただ、意外と「惰性」や「何となく」という理由がまかり通ることも多いのが現実ではなかろうか。
準備したからと言って、必ずしも子供にはまるかはやってみなければわからないし、
はまらない場合に無理強いするなどもってのほか。
その労力は一瞬にして水泡に帰すかもしれないが、それでも、意図をもって準備をすること。その意図の前提に、自分自身の「楽しい」があること。
こうした当たり前のことを当たり前に継続できる環境でありたい。
子どもの意思を尊重すると酒量が減る!?
ゲーム会当日、ゲーム中に、どこまで柔軟に子供に対応するかという話題になったらしい(自分を通すことと我儘は似て非なるものですからねぇ。)。
「タイニーパーク」というゲーム中に、わが娘が4回目のふり直しをご所望。
(もう皆さまお分かりだと思いますが、)我が家では、当然にこの提案は粛々と却下される。
準備段階で、「最初から子供だけ4回ふり直し」などの柔軟性はOK。
ただ、途中でのルール変更は一切受け付けない。
(仮にどんなに泣こうとも…(笑))
それは、ゲームでも何でも同じ。
一昨日も、図形の線対称移動に悪戦苦闘の娘。
単純図形なら難なくクリアできたものの、方眼紙の中にある図形を複数、その向きまでケアしながら移動させるのは思いのほか、難しかったらしい。
まだ早かったかな~と思いつつも、やると決めたページまでは最後まで何とかやりきった。
途中、「じゃああと2問でイイ?」のような提案が娘からあるのだが、これも当然に却下。なぜなら、どこまでやるかは娘自身が決めたのだから。
4歳児であるから、自分の能力を客観的にみることなど絶対に不可能。ただ、そんなことは、はっきり言ってどうでもよい。現時点の自分の能力に鑑みて、その量が多かろうが少なかろうが、まずは決めるということ、そして自分で決めたことを遵守するということ、これくらいの年齢はこっちの方がずっと大切だろうと思う。
大人にできることは、自分が面白そうな素材を選ぶこと、その面白さを伝えること、好奇心と集中力が続く限り付き合うこと、子供であっても自分の言葉と行動に責任を持たせること、こんなことくらいだろうか。
とはいえ、「なんて面倒な問題を選んだんだ、1時間前の俺よ。」というのが本音のところ。何たって私の興味を駆り立ててやまない今宵の美酒がどんどん先延ばしになってしまったのだから。