授業参観は前日から始まる
先日の土曜日、初めての授業参観が催された。
前日の金曜日、チームパパ魔法班の打ち上げ。
金曜日の打ち上げ。
今であれば、これだけで嫌な予感が脳裏をよぎる。
しかし、当日の私はいつもの「末廣酔い止めスペシャル」(飲むヨーグルト500ml程度・C1000・ヨーグルト食べ物・ヘパリーゼ・ポカリスウェット)を服用せず、
しかも、朝からほとんど何も食べずに参戦。
明日は授業参観もあるし、終電では…と高を括っていたのだが…
気が付くといつも通り朝起きて家族を起こす。
そう、途中からの記憶が全くないのである。
夕方頃、リーダーから安否確認があったので、
恐らくは相当に酔っていたのだろう。
二日酔いのない体に産んでくれた両親には心から感謝したい。
そして、記憶のがないというのは恐ろしくもあり、幸せでもある。
いざ、幼稚園
妻の話によると、3時過ぎに帰宅したようである。
確かに、財布には490円のタクシーの領収書があり、時刻はそれくらいを指していた。
いったい、私はどこから乗ったのだろうか。
それはさておき、何事もなかったのように朝の身支度をすませる。
唯一、いつもの日常と変わっていることと言えば、幼稚園バスが来ないことである。
ということで、女性陣は電動自転車に乗り込み、私も愛車(自転車です)で幼稚園まで向かう。
幼稚園に着くと、カバンを置いて帽子を着替え、席に着く。
歌を歌ったり、出席を確認したりして、外遊びの時間へ。
しかし、何かがおかしい。
何だこの言いようのない違和感は。
そうだ、娘の動きが極めて秩序だっているのだ。
私は幼稚園の記憶は割と鮮明で、戸惑いand戸惑いの日々であった。
音楽に合わせて行動するとか、好まないものを食べ残そうとすると、食べるまで給食の時間が続くとか、自分の意のままに行動しようとするとけたたましく怒られるとか…。
強いカルチャーショックを受けたのを思い出す。
ところが、我が娘はTHE・幼稚園生を演じているではないか。
いや、演じているという表現はいささか語弊があるのだが、
自らの幼稚園時代を顧みるとこのような表現を使わざるを得ない。
なにはともあれ、自分のDNAが色濃くなかったことをこの日ほど喜んだことは無いだろう。
そんなことを考えている内に、舞台は外遊びへ。
幼稚園生がいかにもそれらしく、園庭を駆け回っている中、仲良くチームパパの皆様とご歓談をしていると…
何やら注意されている小さな子が。
我が次女である!!
幼稚園生に交じり、勝手に滑り台を滑る次女。
注意される妻。
遺伝子には抗えないとこの数分の間に改めて認識させられた。
大人になっても私の手を煩わせるのは
外遊びも終わり、室内へ。
今日は、絵をかいて紙皿に貼り、それを二つくっつけてフリスビーを作るというもの。
出ました、工作のお時間です。
きっと、幼稚園の先生方は、「父親の良いところを」と気を遣って下さったに違いない。
しかし、世の中には私のように図工という科目に苛まれる日々を送ってきた人もきっと一人や二人ではないだろう(笑)
ということで、ほとんどの工程を娘に丸投げすることにした!
結果として、無事にフリスビーは完成!
どちらが私が書いた絵かは、敢えて言わないことにしよう。
幼稚園はアクティブラーニング!?
その後、大人は簡単な自己紹介をして帰りの会へ。
幼稚園の朝の会、帰りの会を通じて感じたのは担任の先生の教務力の高さ。
「授業形式」は学年が進むほど講義形式に近く、学年が下になるほど双方向性が増すイメージがある。
その意味では、幼稚園の教室は、双方向の極みともいえる。
正直、私の中では相当にカオスな状況を想定していた。
しかし、私の予想とは異なり、不規則発言もその一つ一つをしっかりとケアし、円滑に進行していく。
必要以上に赤ちゃん言葉を使わず、適切な語彙で話しかけながらも、
例示はとても丁寧に行われている。
園児が飽きないように音楽も効果的に活用されていて、参考になる点は多々あった。
(金髪にひげのおっさんが後ろでメモ取りながら聞いていたら不気味でしたよね。すみません。)
幼稚園の教務力は偉大である。
そういえば、「臥薪嘗胆」(授業終了後の演習時間)の集中力を高める方法を発見した。
それは4歳の長女を中心に置いたのである。
4歳児は好きなことはわき目もふらずやるため、集中力が切れた小学生を注意しやすい(笑)
もちろん、2時間も3時間も持つ方法ではないのだが、これからもたまに試してみようと思った。
これも幼稚園の先生方の高い教務力の賜物だ。